昭和44年04月28日 夜の御理解
「神と仲良うする信心ぞ」と仰る。出来るだけ神様に近づけと「神と仲良うする信心」仲良うすると云う事はどう云う事であろう。神様と仲良うすると云う事はどう云う事であろうかと。結局例えば親子の仲夫婦の仲、友達との仲様々なその仲と。人偏にその中という字が書いてありますよね。その仲を良うすると云う事はどうする事。又は仲良うしておる時にはどう言う様な状態であるかと言うと。
お互いが全てを善意に解釈し合っておる時。そして、仲良い例えば友達でも夫婦でも同じですけれども。仲良いというのはもう、何て言うですか、真心の尽くしあいをする事。自分の持っておる真心の全てを相手に捧げる、そう云う事が出来る時が仲良い時なのである。神と仲良うする時という時には、自分の持っておるその真心と、例えば奉仕の心と云う事を惜しみなく捧げる時、神と仲良うしておる時である。
私は本当にその事がですね、是はもう全ての事の中にこの仲良うする信心と云う事を頂かなければいけない。だから是は例えば誰彼との仲に溝が出来たという時には必ずですね、その基をとっておる時には基を調べて見るとですね、所謂その真心の限りを尽くしあっていない時であるそこに疑惑の目、疑いの目それが憎しみとなりそれが仲を裂いて行くのです。どうもこの頃私に対してあの人は。良う思うていないのだろうと言う様な、その疑惑とかね疑いとか、それが終いには憎しみにまで成って来るんですよ。
だから仲というものは壊れてしまう。いわゆる仲が悪うなるというのは、そう言う様な事だと思うんです。そこで信心さして頂く者がですね、本当に実意の限りを持って、真心を尽くす事の稽古をさして貰う。神と仲良うすると云う事は、神様の前に真心の奉仕を怠らない、一生懸命の思いをさして貰う時に、そこに何か知らん心の中に、確かに神と仲良うする信心というものが生まれて来る。そこから神様が仲良うしておって下さるなと、思われる様なおかげが心の上にも形の上にも頂けて来る。
それと同じ様にです、それと同じ様に、例えば相対するものが人間である場合。親子夫婦、友達兄弟、お互いの真心を捧げ合っておる時が仲良うしておる時であり、仲が悪い時にはそれとは反対に捧げる事を忘れて相手を疑うたり、憎んだりしておる時である。そこに言わば誰彼の仲に溝が出来るという。信心をさして頂く者は、そこんところを良く分からして貰うて、はあ自分の思いが欠けておったと悟らして貰う、私はもう例えば、難儀のもとであるめぐり。めぐりとまで仲良うして行く事が出来る。
そのめぐりの為に不幸せになる。難儀を感じておるけれどもです、そのめぐりのおかげで、信心が出来ますと言った様な事は、もうめぐりとして仲ようしておる時である。その仲を良うして行く「神と仲良うする信心ぞ」と仰るのはそういう神様の前に捧げる真、真心と言う様なものを誰彼の前にそれを捧げて行くと云う事が仲良うして行く事。人間の幸せはねその仲が良いと云う事。全ての仲是は人だけではありません。
物とでも金とでも仲良うならなければ金がひっついちゃ着ません金が外れて行きます。「神と仲良うする信心ぞ」という只今私は只今の御祈念でその事を頂いた「神と仲良うする信心ぞ」と。神と仲良う信心するというのは神様の前にだけでなくて神様に捧げる真、真心をそのまま社会にも人にも自分の周囲の誰彼にも与えられる程のものを信心によって頂かなきゃいけん。与え様と思うても心になからにゃ仕方がない。
信心によって培う、信心によって育てる。それがその真心であり、真である。それを自分の周囲の誰彼にでも、いや事柄の上にでも難儀という、それがめぐりの基であるそのめぐりですら、それこそめぐりのおかげで信心が出来ますと言った様なめぐりと仲良うする信心が出来る。それを本当の意味で神と仲良うする信心というのは、そう云う事ではなかろうかと思うね。
どうぞ。